ポール・ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』清水徹訳、筑摩書房、2006年(原著1938年)
ヴァレリーが歴史や伝記に向ける疑義は、本を読みながらの落描きのごとき気まぐれで途切れ途切れの文体によっても体現されているだろう。偶然とそれへの応答を直線的に羅列するだけの歴史や伝記の言説に対して、「知性の喜劇」「精神の喜劇」を描写する断章は、布置と配列においてかえって必然的な本質を剔抉する。歩行に対する舞踊と言うべきか。マルセル・シュオッブでは歴史の一般性が批判されて個別性が目指されていたが、ヴァレリーでは歴史の偶然性が批判されて必然性が目指される。それはロベルト・ロンギも語るような布置だ。装飾、アラベスクとも言えるか。
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ヴァレリーにとって「装飾」の概念は生涯にわたって重要な位置を占める。アラベスクが空間的に展開する延長の装飾だとすれば、ダンスは時間的に展開する持続の装飾だ。いずれも実用的なものではないがゆえに、目的も終わりもなく、無限に続く。芸術を語る言説が、航海術や狩猟術の言説のような明晰さをもたず、かくも曖昧なのも、芸術の作品もろとも装飾になってしまうからか。装飾としての批評、それは本を読みながらの落描きの鏡像か。
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ドガの絵画の床や岩を語りながら、ヴァレリーは壁の染みを見るよう勧めたレオナルド・ダ・ヴィンチの教えを思い起こす。ヴァレリーによれば、アンフォルムなフォルムの描写は、定型表現に頼れないがゆえに、画家にその知性を行使させる。たしかにこれは、画家の才能が混沌において新しい着想に目覚めるとしたレオナルドを引き継ぐものだ。しかしレオナルドがただ着想を語ったのに対して、ヴァレリーは素描と観察を問題にする。レオナルドは着想において神になり、ヴァレリーは観察において知性になる。