The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

平倉圭『ゴダール的方法』

平倉圭ゴダール的方法』、インスクリプト、2010年

 

すでにある思想を表明したのではなく、映像と音声そのものによって思考しているゴダールの映画を把握するには、作品自体から分析方法を引き出さねばならない。ゴダールの編集操作の手つきが分析方法として作品に再帰的に適用される。これはマランやダミッシュの理論的対象へのアプローチに近しく思える。しかし、観者には身体的な認知限界があるために、この再帰的適用は差異を孕み、ベイトソンの言うごとくモアレ状に第三のパターンを示し、このモアレが認識を導くという。理論=観想(teoria)ならぬ「失認的非理論」(a-theoria)による認識だ。その限界はおそらく身体のみならず、装置、媒体、制度、歴史にも関わるにちがいない。

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ゴダールの映画がしばしば観客が映画を見ることのアレゴリーになるのだとすれば、ゴダールの編集操作の根幹たる「類似」が、映画内の映像で完結することなく、観者の想像力も、またその身体さえも、巻き込むからだろう。アビ・ヴァールブルクの情念定型のごとく、光と音を受苦する身体がそれを与える映像と音声に似たものになる。そうしてゴダールは過去を「復活」させる。だが類似は可逆的であり、復活と死はかぎりなく識別不能になる。もし外在的な言語によって類似自体を消去するのでなければ、死と復活の境界は、受苦する目撃者=観客の身体が生きていることにしか求めえない。しかしその身体とはいかなるものか。ここに失認的非理論の場があるだろう。