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岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ルイ・マラン『ユートピア的なもの』

ルイ・マラン『ユートピア的なもの』梶野吉郎訳、法政大学出版局、1995年(原著1973年)

ユートピアの中立性が、ただ現実社会からの分離独立というだけのことであれば、それは共通のイデオロギーに取り込まれている。そうではないユートピアの中立性は、あれでもこれでもないという二重否定によって生み出される余地であり、概念化されるまえの、可能になったばかりの思考だ。ここにユートピアの予言的価値がある。概念や理論がのちに占めるだろう場所を形成し指示するのが、二重否定の操作によるユートピアの形象だとすれば、これはまさに理論的対象そのものでもある。

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マランがモアのユートピアのみならずカントの無限定判断とフッサールの中立変容を経由して理論化する中立性は、まさしくルネサンスの相反の一致だ。モアのユートピアも、ブルーノの無限宇宙も、ルネサンス人文主義による修辞学の刷新から生まれた相反の一致でもって思考される。対立し相反するもののあいだにこそ、その二重否定を通して、批判の余地としての零度が成立する。それは移行点であって停止点ではない。操作であって存在ではない。補足であって総合ではない。この零度をしるしづけるのが、ユートピアの形象だ。概念ではなく形象だ。

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ユートピアは現実の反転でも理想化でもなく、現実においては相反する要素を移動させて――虚構化して――、不可能なはずのものが可能になる余地を生み出す。この操作は、「真面目に遊べ」を格率としたルネサンスにおける秘儀としての遊戯に通じている。クザーヌス、フィチーノ、ピーコらが神の知恵の暗示を遊戯に見たのは、遊戯こそまさしく移動であり虚構化だからか。機知、精神の遊戯たるモノグラムユートピアのモデルたるのもそのためか。

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物語と描写という言説の二形式は、一方の時間的構造化と他方の空間的構造化という差異にとどまらず、意味と指示、言語の内と外という差異ももつ。描写の無時間性は描写対象の独立性のしるしとなる。旅物語は物語を描写へと従属させて、言葉の内にその外のイメージを形成し、そうしてユートピアの形象が成立しうることになる。だがまた描写のなかには物語の痕跡が裂け目として残り、それが批判の契機、現実と虚構の衝突になる。聖書の言葉から物語画のイメージが独立していくルネサンスの動向も考慮すべきか。

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神話、悲劇、書物の差異は、現前、表象、虚構の差異でもあり、なによりもまず出来事との距離、意味と指示による移動の操作から生じている。ユートピアルネサンスという書物の時代の所産であり、また文献学の時代の所産であることに注意しよう。書物の形式、読解の行為が生み出す距離の操作が、ユートピアを可能にする。

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ルネサンスに文学がしばしば対話体をもちいたことと、歴史学が文献学を基礎にして成立したこととは、多様な言説の比較対照という点で通じ合う。批判校訂は複数の言説の駆け引き、複数の空間の戯れにほかならず、虚構が移動によって成立するものなら、すぐれて虚構的構成の操作だろう。かくして歴史は虚構化されるが、同時に虚構も歴史化される。この可逆性こそが歴史と理論の蝶番になる。ユートピアの力の源泉となる。

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ルネサンスに書物が知識の操作から知識の貯蔵へと機能を変えることは、自然の模倣の位置づけが変わることと連動しているのだろう。マランの注目する猿は、おそらく蜜蜂と並んで、その位置をしるしづける形象だ。ユートピアの宗教的寛容に、マランんは国家の世俗化と信仰の個人化という動向の予形をみるが、この寛容を可能にしている自然宗教と多言語主義の発想は、宗教を真理よりも道徳として、つまり社会的紐帯として理解するルネサンス人文主義に淵源するものだろう。

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1968年の革命のようなユートピア的実践は、歴史的条件を根本的に変革しうるが、一瞬だけあらわれてすぐに消えてしまう。ただ消えるにまかせないために、ユートピア的理論が必要だ。あとに残されたモア『ユートピア』やマラン『ユートピア的なもの』のユートピア的形象から、ユートピア的理論を通して、ユートピア的実践を繰り返し取り戻さねばならない。ユートピアはいまだかつて書物以上のものであったためしはない、とのマランの指摘は、書物のユートピア的形象こそがあれでもこれでもないよいう二重否定を通して将来の余地を切り開くことへの信頼でもあるだろう。