The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 稲垣良典『抽象と直観』(創文社、1990年)

おもに、ウィリアム・オッカムの「直観」を軸にした認識論とトマス・アクィナスの「抽象」を軸にした認識論とを対比しながら、中世後期における認識、実在、記号、学知、魂などの捉え方の変異を辿った書物。

中世の認識論が今日理解しにくくなっている要因のひとつは、中世では(少なくともトマス・アクィナスへの流れにおいては)認識がつねに人間(知性あるいは魂)の完成(あるいは成長とも換言できるか)と結びつけて捉えられていたからのようだ。すべてをみずからのうちにもっている神の知性に比して不完全な人間の知性は、認識するためにはみずからのうちにあるものだけでは足りず、みずからのそとにあるものに眼差しを向けなければならない、という。別の言い方をすれば、見たり聞いたり触れたり味わったり嗅いだりすることは、たんにそれらを感覚するということではなくて、みずからのうちにないものを他者(広い意味での)から受け取り、そうしてみずからの知性を完成へとより高めていく行為だということになる。

こうした視点からすると、ときに近世以降の「観念〔idea〕」の原型ともされる「スペキエス〔可知的形質、可知的形象、species intelligibilis〕」は、(少なくともトマスにおいては)心のうちなる観念や表象などではなく、むしろみずからのそとにあるものを認識するための態勢(「能力態=習慣=ハビトゥス」にあるスペキエス)であり、また認識がおこなわれている状態(「現実態=行為=アクトゥス」にあるスペキエス)であることになる、という(いくぶん乱暴で不正確な要約だが)。そして、パラドクシカルにも見えるが、一見「観念」の原型にも見えるスペキエスこそがトマスの(中世の)実在論的な認識論の要であったとすれば、そのスペキエスを否定して事物の「直観」を軸にした認識論を展開したオッカムこそが、近世的な観念論への道を切り開いたことになる。というのも、スペキエスの理論が、感性と知性とを、事物と記号とを、「抽象」というかたちで連続的に結びつけていたのに対して、事物が「直観」できることになると、そこには抽象が入り込まないために、記号は事物から導かれえず、事物と記号とが分断されてしまうからだ。それゆえ、トマスにあっては、知ることはみずからのそとへと開かれ、超出していくことだったのに対し、オッカムにおいては、知ることはみずからのうちにあるものを知ることとみずからのそとにあるものを知ることとに(こういってよければ、感じることと考えることとに)分断され、学知は人間の心のなかのことにしか関わらないことになる。

個人的には、オッカム的な発想よりもトマス的な発想のほうが面白いように思う。そこには、ある意味で自己と他者との連続性があり(自己を他者のほうへと開いていくとともに、他者を自己のうちに受け入れていき、そうして一致するに至るのだから)、その連続性を支えているのはほかならない「存在」そのものたる「神」、「存在」をcommunicareする「神」だろう。中世における真理の定式「resとintellectusとのadaequatio」というのは、けっして「対象と表象との一致」なるものではなく(「対象と表象との一致」なるものは確証されえないというのは、カントからローティに至るまでいくども繰り返されているし、正しいとも思うが、けれども中世的な真理の定式への批判にはならないだろう)、こうした連続性=存在を念頭におきつつ、理解しなければならないのかもしれない。そしてこの連続性を理論化しえないのであれば(個人的には「存在」とは別のかたちで、さらには「行為」「プラクシス」とも別のかたちで理論化したいところだが)、観念論的な発想への批判としてでてきた今日の直接知覚論や直接実在論はオッカム的発想の圏域を出ることはできず、その意味で観念論を真に脱却したことにはなりえないのかもしれない。