The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 神崎繁『プラトンと反遠近法』(新書館、1999年)

プラトンと反遠近法


〈本体/あらわれ〉の分割およびそのうちの「あらわれ」の形成と密接に関わる「遠近法」を、その前史たる「背景画(skenographia)」や「光学(optika, perspectiva)」の変遷を辿りながら考察した書物。

おもにギリシアからヘレニズムに重点が置かれつつ、興味深い挿話がいくつも考察されていて面白く思う。ただ、挿話が順に並んでいるだけで全体としてはいくぶんまとまりを欠いており、かなり強引に読み込もうとするのでなければ、議論がどこに向かっているのかを把握しづらいように感じる。それも、一方で「ひとつの中心をもつ普遍的な合理主義」の寓意とされ、他方で「多様な見かけのうちに本質を解体する相対主義」の寓意とされるという、遠近法そのものの揺れゆえになのだろうか。キュクロプスアルゴスのあいだにある遠近法。

強引に読み込んでしまえば、「遠近法」の問題とはつまるところ「媒介」の問題であるということになるだろうか。遠近法においても、直接性と媒介性が問題となる。もっと抽象化して古典的な言い方にすれば、〈一〉と〈多〉の問題、とかなるのかもしれないが。

ルネサンスの遠近法は「片目を覆い頭を固定する」ことをおこなったが、これがそのままプラトンの洞窟の比喩に接続するように見える、という示唆は、「錯覚」や「イメージ」の問題系についていろいろと連想させる。トロンプ・ルイユなども(「頭を固定する」とまではいかないまでも)そうした特定の条件下でしか錯覚を引き起こさない。とするなら、この特定の条件、すなわち特定の身体の状態と環境の状況というのを、「洞窟」として考えることも可能だろう。そして洞窟の出口は、と問うなら、おそらくハンス・ブルーメンベルクへと議論が接続していく。