The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ユベール・ダミッシュ『線についての論考』

Hubert Damisch, Traité du trait, Paris : Editions de la Reunion des Musées Nationaux, 1995.

 

ルーチョ・フォンタナ《空間概念——期待》のシリーズは、一つのカンヴァスの物理的破損であると同時に、絵画というジャンル一般の概念的崩壊でもある。カンヴァスの切れ込みの「線trait」は、1960年代の異議申し立ての時代の(先駆としての)「特徴trait」になる。このような特殊から一般への移行のなかに、ダミッシュは「線=特徴」の機能の変動とその振幅をはかる。同じ一つの線が、そのままで、物理から象徴までの振幅のなかで機能を変動させる。

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ダミッシュは、言語学的な意味での——しかしおそらくはウィトゲンシュタイン的な意味での——「アスペクト」によって、芸術作品のはたらきの特殊から一般への移行を捉える。それはもちろん、ルーチョ・フォンタナによるカンヴァスの切り裂きがそのままで絵画一般の概念の解体でもあることを、アスペクトの転換として見ているわけだが、実のところ芸術そのものがそのようなアスペクトの操作でこそ成立しているだろう。ダミッシュが『雲の理論』で引いていたポントルモの言葉が思い出される。

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芸術について考えるのではなく、芸術とともに考えるダミッシュの思索では、イメージが言葉の図解としてあるというより、イメージの展開として言葉がある。人間が言葉でもって考えているというよりも、イメージによって人間は考えさせられている。このとき芸術の理解は、作品の制作された過去の再現でも、現在からの概念の投影というだけでもなくなり、むしろ現在からの概念の投影が可能になった過去からの経緯を作品(群)の構造において理論として描き出すことになる。

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方法的アナクロニズム——と便宜的に名づけるとして——を、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンやダニエル・アラスから遡って、ダミッシュの提起している仕方でもちいるとき、なによりも芸術の普遍性と多様性を結び合わせることが争点になる。アナクロニズムは時間化としてのアスペクト化であり、見えるものと同時に見えないことも問題になる。そうしてまず、時代ごと、地域ごとに芸術をひたすら細分化していくだけの相対主義多文化主義)が斥けられる。けれどもまた、芸術をすべて一つ(かいくつか)の基準ではかるだけの原理主義(科学主義)も斥けられる。

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ダミッシュは「線=特徴trait」の語の多義性を、「引くtirer」という操作、作業から導き出す。概念は身体に根差すもの、とも言いたくなる議論ではあるものの、しかしダミッシュは師のモーリス・メルロ=ポンティのようには身体を語らず、むしろ操作について、作業についてもっぱら語る。主体ではなく、構造が問題だからか。そして概念そのものが、定義というよりも、操作ではないのか。概念の操作性は、比喩の広がりではないか。

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西洋絵画と中国絵画の対比は、『雲の理論』のときと同様、歴史上の影響関係ではなくむしろ無関係にもとづいて正当化される。墨に五色ありとする中国の文人画は、線がそのままで色であり、色がまた線になるという、西洋絵画が考えもしなかったこと、西洋絵画の無意識を示す。フロイトがすでに示唆していたように、無意識は外に広がっているのであれば、空間的な広がり、地理的な分散は、無意識を構成しているか。

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中国では毛筆が線に抑揚と濃淡を与え、線と面、線と色が連続的なものとされていたのに対して、ヨーロッパでは線はなにより銀筆などの棒状の金属片の鋭利な尖端で引かれるものだった。それは刻み、彫ることにも近しく、均一な線を生み出す。輪郭線をできるかぎり細くするという西洋絵画の規範は、空間概念や認識理論以前に、そのような線の操作の経験に通じている。