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岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』

マッシモ・カッチャーリ『死後に生きる者たち』上村忠男訳、みすず書房、2013年(原著1980年、2005年)

 

ニーチェを継いで語られる「死後に生きる者たち」の位置は、同時代性も、反時代性さえもなく、主体を幽霊のごとき絶対的な距離のうちに置く。「自分のいる時代に先んじているだけの者は、その時代にいずれは追いつかれる」(ウィトゲンシュタイン)という危険を免れて、アクチュアルであるか否かの無意味さをあらわにする。そうして、真理の必然性から出来事の偶然性へと回帰し、なにより細部に眼差しを注ぐことになる。時間、歴史、という共通の場所を失って孤独に漂う「死後を生きる者たち」は、ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』のイメージのごとくあるかに思える。けれども、見られるよりも聞かれる存在であるという。

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カッチャーリはウィトゲンシュタインの思索の中心を、自然言語の可変性と世界の偶然性に見定める。自然言語の論理化は言語をトートロジーに変え、世界を記述する科学言語は世界と同じく偶然的で、すべての命題は等価である。言語が価値(善)に導くことなどなく、ただ別の場所に連れていくにすぎない。変容する言語ゲームは、ヴェールを剝ぐのではなくして、たえずヴェールをかけなおし、多様な語法を生み、語りえない世界を示す。これは、カッチャーリによれば、ベンヤミンのいうバロック哀悼劇の空間そのものだ。だがまた、ルネサンス人文主義の真理論と言語論にも通じているように思う。

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ウィトゲンシュタインによる倫理と論理の分割が、キリスト教的な確実性の空間とバロック哀悼劇の寓意の空間との分断に通じているとして、これが二重真理説の系譜上で有する意味は何か。神学と哲学、キリスト教ギリシア哲学の二重真理説は、ヨーロッパでは中世のアリストテレス主義に端を発し、ルネサンスに新プラトン主義的な秘義と入門への分割を経て、ジョルダーノ・ブルーノで道徳と真理の分割になり、やがて近代を通じて認識論的な信と知の対立に整理される。だがウィトゲンシュタインにあっては、語りえぬものは、あらゆる語られたことを切断して、そこに見透しを与えるとともに、あらゆる語られたことから示される。

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ベルクの作曲法に示されている多様性の「合成」は、ヴェーベルンアフォリズム的な結晶の対極にあって、伝統的なモチーフやスタイルを断片において過剰にし、もういちど可能性の状態に引き戻しながら、回帰も反復も解決もなしにたえず変奏する。この「もはやない」と「いまだない」の聞きうる形式は、リゾーム的多様性ではなく、厳密な論理学にもとづいていて、変身の明晰さ、合成の冒険性を原理とするという。音楽と歌詞とがそれぞれ別個の組織化の原理を有しながら、歌曲においてはおたがいの場所を相互の沈黙と聴取のうちに明け渡すごとく、合成では多様性は散文的に併存する。