The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

ハーマン、グラント

  • Graham Harman, "On the Undermining of Objects: Grant, Bruno, and the Radical Philosophy" (2011)
  • Iain Hamilton Grant, "Mining Conditions: A Response to Harman" (2011)

すこし時間をかけてあとづけている思弁的実在論における「ブルーノ問題」。まずざっくりと争点だけまとめてしまえば、「一元論か、多元論か」と「実体か、力能か」の二つだと言えそう(たがいに入り組んでいるものの)。一方でグレアム・ハーマンが問題にするのは、実在を連続的に自己差異化する全体と見るべきか、それとも多様な原子的個体の集合と見るか、である。他方でイエイン・ハミルトン・グラントは、それは見せかけの争点で、むしろ真に問題なのは実在を自存する実体として考えてからそこに生成変化の力能を付与するのか、それともたえざる生成変化の力能がまずあってそこから多様な個体が派生してくると考えるのか、だとしている。

哲学史的に見ればグラントの応答のほうがブルーノ解釈としては妥当で、対するハーマンは、たしかに『原因、原理、一者について』を丁寧に読み込んでいることを窺わせるし(ブルーノの形相論がスコラ哲学の「実体形相」、もっといえばドゥンス・スコトゥスの「このもの性」に対する批判ということもしっかり押さえている)、フランシスコ・スアレスとかハビエル・スビリとかを引き合いに出すマニアックさも面白いが、しかし根本的に転倒したパースペクティヴからブルーノを読んでいる印象がある。つまりハーマンは、ブルーノは不断に変化する個体の多様性を説明するためにこそ無限の一者を呼び出しているのだということを理解せず、逆にブルーノは生成変化する多様な個体を消去して唯一不変の無限なる一者を実在にしてしまったのだと誤読している。ブルーノの(あるいはもっと広くルネサンスの)いわば「転倒した」プラトン主義は、生成変化を超えるイデアを説明するために無限の一者を語るのではなく、生成変化それ自体を説明するためにこそ無限の一者を引き合いに出す。つまり個体を消去することではなく、逆に生成変化に実在性を与えることが狙われているのである。このことがハーマンに理解されていない。

この誤解はなにもハーマン特有のものではなくて、ブルーノをスピノザに重ね合わせたピエール・ベール以来、長らく繰り返されてきたものだが、とはいえたんに解釈の誤りを指摘するだけでは不毛だろう。このハーマンの誤読が、ハーマン自身の「オブジェクト指向哲学」(object-oriented philosophy)の盲点を(さらには今日的な実在論の賭金を)指し示してはいないかどうか、さらに議論を追ってみるべきように思う。