風間喜代三、アガンベン
インド=ヨーロッパ祖語にかぎらず、おおよそ「起源」を求めるときにまず第一に躓きとなるのは、いったい「共同体」なる概念をどのようなものとして理解するのか、ということのようにも思う。家族か国家か民族か価値観かはたまた幻想か、いずれにせよなにものかへの「帰属」(所属)によって共同体が成立する――こうした発想方法に大きな問題があることは、二〇世紀のあいだに蓄積された民族誌的な事実によって端的に示唆されているというのに、この発想方法はいまだ根強い。
なぜ「帰属」という発想が(ミシェル・セール的な言い方をすれば「帰属のリビード」が)生じてしまうのだろうか。セールとクロード・レヴィ=ストロースがそれぞれにこの「帰属」という発想方法を批判して、それに代えて「交換」を打ち出したことの意味は、まだまだ充分に咀嚼されていないのだろう。