The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論 (長崎純心レクチャーズ)』(創文社、1999年)


トマス・アクィナスのキリスト論について、歴史的な背景や現代的な意義を見据えつつ、平明に語った講演録。

「人間でありかつ神である」というキリストのパラドクシカルな規定をめぐって展開された諸問題に対して、「ひとつのペルソナ、ふたつの本性(ナトゥーラ)」という五大公会議以来の教義を踏まえつつ(そしてヒュポスタシス的結合を定式化したヨハネス・ダマスケヌスを受けつつ)トマスが与えた解決は、神性が人性を受容〔assumere〕し、人性に存在を伝える〔communicare〕、というものだったという。この存在のcommunicareは存在のdareとは異なる、という点にトマスの独創があるようだ。「与える〔dare〕」場合には、そのものは自分のもとからはなくなってしまうが、逆に「伝える〔communicare〕」場合には、そのものは伝えた者と伝えられた者とに共有されることになる。神性は人性に存在を伝え、共有し、ふたつの本性の差異を保ったままにひとつのペルソナとなる。このdareとcommunicareの区別はたしかに面白い。ことによると、〈エネルギー/情報〉の区別を軸にしてその多くの思索を展開しているミシェル・セールとの照応を考えてみるのも面白いかもしれない。

ひじょうにコンパクトな書物ながら、キリスト教成立の背景から五大公会議における教義論争、ヨハネス・ダマスケヌストマス・アクィナスによる教義の深化を概観し、さらにトマス以後、ルターによる教義の否定と信仰への回帰(教義と信仰の分裂)を経て現代までをたどっていて、とてもすっきりとした見通しを得られる。「人かつ神」「受肉」の解釈をめぐる教義論争やグノーシス的発想への反駁などは、今日の心身問題を考えるうえでも重要な発想源になるように思う。そしてまた、ルター以後、ややこしい教義を捨て去り単純な信仰へと回帰することが唱えられるようになったが、それは結局のところきわめて凡庸な道徳にしか帰着しないのではないか、という批判は鋭い。積み重ねられてきた思考の複雑さを捨て去り、単純なありのままの事実に接したいという「逐語性」への誘惑に屈することは、マリオ・ペルニオーラが指摘しているように、実のところ「陳腐さ」、硬直性、不寛容に帰着してしまうだろう。