The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ヴィクトル・ストイキツァ『ピュグマリオン効果―シミュラークルの歴史人類学』(松原知生訳、ありな書房、2006年)

ピュグマリオン効果―シミュラークルの歴史人類学


 ヴィクトル・ストイキツァ(Victor I. Stoichita, 1949- )が、ピュグマリオンの神話の諸変奏をたどりつつ、現実に取って代わるシミュラークルとしてのイメージについて考察した書物。

 プラトンによる〈エイコーン/ファンタスマ〉の区別から筆を起こし、「ファンタスマ=シミュラークル」の寓話とも言うべきピュグマリオンの神話の原型をオウィディウス『変身物語』において検討する、という常套的でオーソドックスなところから出発しつつも、そのあとは、中世の『薔薇物語』、ルネサンスのサンソヴィーノによる彫刻、マニエリスムバロックトロイア戦争(へレネ)の異聞、啓蒙主義期のピュグマリオン神話の表象、十九世紀のジェロームにおける彫刻/写真、二十世紀のヒッチコック《めまい》とバービー人形、というように、時系列に沿いつつも多様な事象が扱われており、まさに圧巻のひとこと。〈現実/虚構〉の入れ子や合わせ鏡の構造が、豊富な事例を通して浮かび上がってくる。

 とはいえ、プラトンの〈エイコーン/ファンタスマ〉から出発していることからもわかるとおり、基本的な枠組みとしては慎ましい。オリジナルのコピーとして非現実的なものの位置にとどまる「エイコーン」に対して、オリジナルのないイメージたる「ファンタスマ=シミュラークル」はそれ自体が現実となる。結論では、これが二〇のテーゼに定式化される。けれども、ストイキツァの検討する豊富な事例はどれも、この慎ましい枠組みを逸脱してしまっているようにも思える。なるほど、確かにシミュラークルのもたらす〈現実/虚構〉の錯綜が〈オリジナル/コピー〉という考えを解体することはありうるだろう。けれども、ただそれを主張するだけでは、すなわち〈シミュラークル〉の対立項として〈オリジナル/コピー〉をもちだしているかぎりは、結局のところ「不在の現前」というパラドクスの外に出ることはできず、「現実の喪失」といった空疎なキャッチフレーズに回収されてしまう危険がある。イメージが非現実的なものではなく、まさしく現実として存在することを認めつつも、それでも、そのイメージが他の現実や実在と複雑な関係を取りもっていることの内実を理論化していく必要がある。それなのに、そこで〈オリジナル/コピー〉を批判すべき項としてもちだしてしまうと、その理論化すべき内実が見失われてしまうのだ(これは「現前の形而上学批判」とも共通する陥没にほかならない)。ストイキツァの各章での個々の事例の考察は――流石というべきか――この陥没を巧みに免れているものの、序や結の理論的定式化では少しばかりこの陥没に陥りかけているように思う。そこからの脱却のための「シミュラークル」としてのイメージの定式化には、たとえばピエール・レヴィの「ヴァーチュアル」についての議論などを参照してみるのも良いかもしれない。

 ほかに。イメージ(という現実)と(イメージとは別の)現実との移行関係――生命を感覚すること、あるいは「アニミスム」「アンソロポモルフィスム」?――において重要なものとして、このピュグマリオン効果の分析から導かれるもののひとつが、「感覚」である。おもに古代、中世、啓蒙主義期の章で比較的多く言及される感覚論の問題は、どれも示唆に満ちており、一見するところの〈視覚/触覚〉の対立という単純な図式を突き崩してしまう。さらには、運動やエネルギーの問題も絡まり合う。はたしてこれらをどう整序し、理論化できるだろうか。