The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)』(遠藤知巳訳、十月社、1997年/以文社、2005年)

観察者の系譜―視覚空間の変容とモダニティ (以文叢書)


ジョナサン・クレーリーが、近代の視覚/観察者における17〜18世紀と19世紀との切断面について、科学史と美術史と哲学史を統合的に扱いながら論じた書物。

個人的には、フーコー的な「切断」によって歴史を捉えようとは思わないし、まして歴史を「構築」と見なして真理性の問いを放棄し、歴史を現在における政治的なパフォーマンスに完全に還元してしまうという戦略もとらないが(というのも、そうしたパフォーマンスへの還元は、政治や倫理への転回/回帰を装いつつも、その実、政治も倫理も解体する結果に帰着してしまうからだ)、通常はまったく別に考えられている「芸術における純粋還元主義」「生理学における要素還元主義」「哲学における観念主義」の平行性を執拗に描きだしていくクレーリーの議論は、たしかに古典となるだけの刺激に満ちている。

とりわけ、芸術家たちによってあらゆる規律からの解放の戦略として語られてきた「純粋視覚」なるものは、実は、より良く支配するための手段として規律権力によって構成されたものだった、というパラドクスの指摘は面白く思う。ジョルジョ・アガンベン的に言うならば、モダニズムの「純粋視覚」なるものもまたある意味で生政治の賭け金たる「ゾーエー」のひとつだった、ということだろうか。とはいえ、「純粋視覚」がひとつの虚構でしかありえないのと同様に、アガンベン的な「ゾーエー」もまた虚構であり、実際には複数の「ビオス」間での抗争がおこなわれていたのだ、と考えることもできるだろう。そうして、近代もまた、「純粋視覚」が実際には存在しないものであるがゆえに、実は複数の視覚/観察者の抗争(むしろすれ違い?)が水面下でおこなわれていたのだ、とクレーリーの議論を積極的に解体していくこともできるかもしれない。