The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 内田樹『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004年)

他者と死者―ラカンによるレヴィナス


エマニュエル・レヴィナスジャック・ラカンとを類比させつつ読んでいく書物。

死者の名のもとに倫理や正義を根拠づけようとする思考が孕む欺瞞を鋭く指摘しているように思う。正義や倫理について語ろうとするとき、死者(あるいは弱者、プロレタリアートでもマイノリティでもサバルタンでもかまわないだろうが)に同情し、肩入れし、その代理人となろうとすることは、もっとも抗いがたい誘惑のひとつだろう。だが、それがいかに善意にもとづいていようと、それだけでは正義でも倫理でもない。むしろ、死者の名のもとにみずからの思考の正当性を強引に押しつけようとする暴力的で欺瞞的なふるまいに陥ってしまうことがほとんどではないだろうか。レヴィナスラカンの特殊な語法は、そうした欺瞞を回避するための選択だったという。だが、そのような「前言撤回」の語法(否定神学の語法?)で、はたしてどこまで欺瞞を回避できるのかについては、あらためて問う必要があるだろう。

レヴィナスラカンも「欲望」という概念がその思考の根幹にある。ありもしないものを失ってしまったのだと錯誤することで存在させる、という思考の構造を人間の根幹に見いだしたラカンは、その構造を「欲望」として精錬させていったように思う。ありもしなかったものをめぐる欲望という着想は、レヴィナスにも共通している(ただレヴィナスの場合、「逃走」という契機が「欲望」と関わってくる点でラカンとの差異がある気もするが、このあたりことはまだうまく理解できていない)。けれども、ロラン・バルトが『テクストの快楽』で指摘したように、「欲望」をモデルにした思考はいたるところに溢れているのではないだろうか(もちろん、それぞれの思考ごとに「欲望」のニュアンスが異なっているにしても)。そのような「欲望」モデルで思考することには、すでに限界が訪れているように思う。だからこそバルトは、欲望のモデルに対して快楽のモデルを提示しようとしたのだろう(もっともバルトは、結局最後まで欲望のモデルを手放さなかったように思う。あるいはむしろ、バルトは欲望と快楽とを重ね合わせようとしていたのかもしれない)。

「欲望」の原因としての「謎」についても、マリオ・ペルニオーラが『エニグマ』で論じた〈秘密/襞/謎〉の区分に照らし合わせてみるならば、その内実は「謎」というよりも「秘密」に近いように思う。とすると、ペルニオーラが「秘密」に対しておこなった批判を免れていないのではないだろうか。たとえ、その「秘密」が実は隠されることではじめて存在し始めたものであり、実際には永遠に顕わになることのないものなのだとしても、である。「秘密」と「欲望」とは別の仕方で考える必要があるだろう。