The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 宇野重規『政治哲学へ―現代フランスとの対話 (公共哲学叢書)』(東京大学出版会、2004年)

政治哲学へ―現代フランスとの対話 (公共哲学叢書)


近年、これまでになく活況を見せている現代フランスの政治哲学を、ときに英語圏の政治哲学と対比しつつ概観した書物。

現代フランスの政治哲学は、ひとつには、デモクラシーのパラドクスをめぐって展開されていると捉えることができるようだ。みずからの外部に規範をもたない政治体制であるデモクラシーは、その内部に避けがたく差異や不和を孕み、つねに不安定である。しかしパラドクシカルなことに、その差異や不和こそがデモクラシーを成り立たせているのであって、内部の差異や不和を抹消して直接性・無媒介性を打ち立てようとするなら、全体主義を招き寄せてしまう。全体主義を避け、差異や不和を孕んだままのデモクラシーを維持し続けるにはどうすれよいのだろうか。フランスの現代政治哲学はこうした観点から「代表制」(マルセル・ゴーシェ)や「人権」(クロード・ルフォール、エティエンヌ・バリバール)などを捉えなおしていく。

ここで問題となっているのは、この差異をいかに維持しつつしかも流動化するのか、ということだろう。「互いの文化的差異を尊重する」という美辞麗句の名のもとに、あらたな人種主義が台頭している今日、ただたんに「互いの差異を認めあおう」という呑気な主張をもはや反復し続けることはできない。差異にもとづく差別を回避するためには、差異を尊重して固定化してしまうのではなく、かといって性急に差異を抹消しようとするのでもなく、その差異を維持しつつも流動化する(ロラン・バルトに倣うなら、差異を微妙化する)必要がある。

この流動的な差異の場として、公共性を捉えることは可能だろうか。この本に書かれているとおり、実は公共性は共同体とは異なっている。共同体があったとしても公共性があるとはかぎらない。公共性は、閉塞的な共同体(文化的であれ、宗教的であれ、民族的であれ)を超えでたところにしかない。ジャック・ランシエールなら、その場を「平等」の場と捉えるだろうか。けれども、「平等」という理念の名のもとに絶対王政期よりもはるかに中央集権化を推し進めたのが革命後のフランス共和国だったことを考えると、そうした公共性の実現を国民国家という枠組みに求めることには慎重になったほうがいいだろう(もちろん、ランシエールはそのようなことはしない)。むしろもっと流動的なものとして公共性を考えることはできるだろうか。