The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 カルロ・ギンズブルグ『ピノッキオの眼―距離についての九つの省察』(竹山博英訳、せりか書房、2001年)

ピノッキオの眼―距離についての九つの省察


カルロ・ギンズブルグ(1939- )による1998年に刊行された論文集。

ギンズブルグはこの本で、「イメージ」「表象」「異化」「虚構」「スタイル」「パースペクティヴ」といった概念を、語源やあるいは古代の用法に遡って考察している。語源学的な分析は、ハンス=ゲオルク・ガダマーも言うように、現在の語法との関わりがなければそれほど意味があるとは思えないが、それでもそうした分析を通じて、現在問われている問題が太古の昔から反復されてきたものだ(たとえば、現代におけるイメージ論の多くは、ビザンティンでのイコノクラスムをめぐる議論の構図をほぼそのまま反復しているという印象を抱いてしまう)と知ることは、とても重要なことのように思う。現在の問題は、現在だけの問題ではない。ただ、ギンズブルグの面白いところは、そうした過去の問題の反復を直接的に示そうとはせずに、ほのめかしつつも過去の具体的な事例を細かく検討していくところだろう。

そうした過去の検討のなかに、歴史論争において問題となった現実と虚構の問題や、多元主義相対主義の問題が至るところで顔をのぞかせる。ギンズブルグは複数性を認めつつ、しかしなんでもありの安易な相対主義に対しては批判的距離を保とうとしている。それはとりわけスタイルやパースペクティヴの概念を検討する議論において顕著だが、その議論のなかでパースペクティヴィズムを単一のものとして捉えるのではなく、アウグスティヌスマキャヴェッリライプニッツをそれぞれ検討しつつ、「適合」「衝突」「多重性」の三つのパースペクティヴィズム・モデルを導きだしているのは面白い。ただ、ギンズブルグはこうしたパースペクティヴィズムがもたらした主観性と客観性の緊張関係にこそ、安易な相対主義への批判の糸口を見いだそうとしているように思うが、それでうまくいくのだろうか。むしろ、スタイルやパースペクティヴの流動性にもっと注意を払うべきではないだろうか。

これは異化の問題にも通じる。異化という概念は、基本的には〈慣習/慣習からの逸脱〉という構図のもとでのみ意味を持つが、そもそもなにが逸脱でなにが逸脱でないかを一義的に決定できるような均質にして安定した慣習(あるいはパースペクティヴ)などというものはない。異化することを、たんに慣習から逸脱させること、あるいは慣習の外側であるがままの姿をあらわにすることと捉えるのなら、そうした異化の概念にはすぐに限界が訪れるだろう。むしろ、異化とは別の慣習のもとに置くこと、異なる慣習のうちを通過することと捉えるべきではないだろうか。