The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

 Giorgio Agamben, Image et mémoire, Desclée de brouwer, Paris, 2004.

ジョルジョ・アガンベン(1942- )の1975年の論文「アビ・ヴァールブルクと名前のない科学」(1983年に補遺が書かれた)を読む。イタリア語のは入手できていないので、さしあたり『イメージと記憶』に所収のフランス語訳で。

アガンベンはヴァールブルクの方法論を、いわば通時態と共時態との接合部、その裂け目において芸術作品(むしろイメージ)を捉えようとするものだとしている。ヴァールブルクは、イメージ(芸術作品)を、芸術家の心の表出と考えることもなければ、歴史を超えた集合的無意識のあらわれと考えることもない。むしろそうした〈意識/無意識〉〈歴史/構造〉〈通時態/共時態〉という対立の裂け目こそイメージという場であり、その場において人間主体が生みだされるという。そしてそれをヴァールブルクは、イコノグラフィーと美術史、文化史、そして「名前のない科学」、の三つのレヴェルの解釈学的循環を通して捉えようとしていた、と指摘する。

対立項の閾に芸術やイメージや人間といったものを位置づけるのは、『中身のない人間』(芸術についてはとくに「引用」の問題を扱った「メランコリーの天使」の章)以来アガンベンに一貫しているモチーフだが、さしあたりここで面白いのは、アガンベンはこうした裂け目をこそ根源的に「歴史的なもの」だと捉えているらしいことだろう。ヴァールブルクの『ムネモシュネ』などは、ある意味でユング的な原型を探求したイコノグラフィーのカタログであるかのように解釈されたりするが、むしろアガンベンによれば『ムネモシュネ』はナルキッソスの鏡のようなものだという。そしてヴァールブルクが熱中したニンフは歴史的主体そのものの形象なのだという。このあたりは、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンがヴァールブルクの言う「残存」を、明白な影響関係でもなければ普遍的な原型でもない、「徴候」として解釈していることと重ねてみると面白いだろう。もっともアガンベンはNachlebenを「生き残り」よりも「死後の生」として捉えているようだが。