The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

中井正一『美学入門』

中井正一『美学入門』、中公文庫、2010年(初版1951年)

 

中井正一ヴァルター・ベンヤミンとの親近性は、誰しもすぐさま気づかずにはいられない――脱落の美とアウラの凋落、コプラの欠如とショック作用、基礎射影と視覚的無意識、謬りを踏みしめての現在と今というとき、委員会とほぐれた大衆、さらには救済における大乗仏教ユダヤ神秘主義まで。両者の類似と差異を羅列するのではなく、むしろ同時代の同問題をまえにした変換関係として並置するなら、何が見えてくるだろうか。

   *

中井によれば、自然の美は人間を社会の不自由から解放し、技術は人間と自然ないし人間と人間のあいだに調和を実現し、芸術の美は願望と希求において可能性を切り拓く。フリードリヒ・シラーが遊戯という観点から美のもつ解放・調和・願望の効力を理論化したように、中井は脱落、脱出、脱走という観点からそれを理論化する。遊戯から脱落への観点の移動は、美を歴史化するだろう。とはいえ、それは進歩や発展ではない。中井ははっきりと本質主義を斥けている。美が本質や理念よりも脱落の歴史的運動であるとは、上野俊哉の示唆するとおり、むしろ離散とさえ見なせるかもしれないものだ。

   *

人間の生存のありようにしたがって空間の感覚は変容し、その変化にあわせて空間が建築等によって形成される。アロイス・リーグルとヴィルヘルム・ヴォリンガーを参照した中井の空間論は、領土論にも通じている。音楽をパラダイムとする時間論も同様だ。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの言うように、生存のテリトリーの形成として芸術ははたらく。このとき、光に重い軽いがあるわけではないし、色に温かい冷たいが、音に高い低いがあるわけでもなく、それらを感受し表現する精神――近代的主体性というよりもむしろ乱反射する射影の宮殿のごとき精神――の問題なのだと、中井は言う。こちらはクロード・レヴィ=ストロースの野生の思考を思い起こさせる指摘だ。

   *

音楽は予期と切断によってリズムを形成する。時間の認識が音楽としてリズムを生むが、音楽が時間をリズムとして認識させもする。このとき意識が、個人の内面性というよりも、時間の射影構造にほかならないとすれば、ここにあるのはリズムにリズムが共鳴する現象のみと言えるか。それは数学と歴史の両極のあいだにある実存の水準で生じつつ、自然から文化にまで広がっている。もし装飾が、造形として、舞踊として、また音楽として、テリトリーを形成するのなら、中井がヴィクトール・ユゴーレ・ミゼラブル』から引くごとく、いかなる希望も失われたところに歌だけが残るとは、リズムが同時に共鳴でも領土でもあることを示しているのかもしれない。

   *

芸術における模倣論と表現論という対を脱け出る道は、無意識(超現実)と存在(実存)の二つに通じる。無意識あるいは超現実に関して、中井は、あるいは九鬼周造から知ったのだろうか、テオドール・ジェリコーエプソンの競馬》を論じている。エドワード・マイブリッジの連続写真によって論争の渦中に投げ込まれてしまったジェリコーの馬の描写を。

   *

「芸術は自然を模倣する」(アリストテレス)から「自然は芸術を模倣する」(ワイルド)への転換は、古代と近代の芸術観念における人間と自然の関係性の変化を示すのみならず、思考の立脚点が形而上学から認識論へと転回したことに連動しているだろう。では、そこからさらに現代への展開は、いわゆる言語論的転回に連動しているだろうか。これを、京都学派がいちはやく技術・身体・言語を問題にしていたとして、ただ先駆的と評価するばかりにせず、転回なるものの地理的時差の構造と考えあわせてみると、どうなるか。終焉と転回ばかりが増えていく現在を、時差の構造から把握すると、どうなるだろうか。

   *

プラトンの魂にしてもカントの主観性にしても、人間の能力の分類と社会の階級の区分とが相同性を示すとして、だがそれは二項間の反映や影響というよりも、心理と社会、身体に宇宙、形而上学から言語まで、構造がたえず場所を変えながら翻訳されて、繰り返し反復されるところに成立しているのではないか。翻訳され反復されて相同性が形成されながら、そのつどの微細なずれから、変化のダイナミズムが生じる。類型を実体とせず、その生成消滅が歴史となる。

   *

素朴な反映論ではなく、射影構造の模写論から理解されるべきであれ、心の概念は世界観や社会構造との連関において成立するがゆえに、美は世界を映し、希望を示す。美には流行があり、流行が美を生む。古代の美は秩序と光輝、近代の美は個性と独創であるとして、では現代の美は何か。機械美への陶酔と不安は、秩序と独創を両立させるような巨大な生産、つまり歴史の感覚につながっている。

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン』

ロージ・ブライドッティ『ポストヒューマン――新しい人文学に向けて』門林岳史監訳、フィルムアート社、2019年(原著2013年)

 

ブライドッティによれば、現代の科学技術の発達と政治経済のグローバル化によって、個人主義的な主体性を人間に認めがたくなってきている。この状況下で、三つのポストヒューマニズムの潮流があらわれてきているという。マーサ・ヌスバウムのように、普遍的な人間性の道徳的価値を復興させようという反動的ポストヒューマニズムないし新ヒューマニズム。ブリュノ・ラトゥールのように、人間と非人間が緊密な関係性を形成していることをたどる分析的ポストヒューマニズム。そしてブライドッティ自身の、生命一元論の観点から人間と非人間の集合的主体性を実験する批判的ポストヒューマニズムだ。

   *

ブライドッティの批判的ポストヒューマニズムとは、アファーマティヴなものだという。ヒューマニズムとアンチヒューマニズムの対立が理論的な袋小路に入り込んでしまっている現況に対して、批判的に介入するものだという。だがこの介入は、歴史性に根差した、個別的な系譜との取り組みとしてしか可能ではない。もちろんルネサンスヒューマニストはルネ・デカルトのコギトもイマヌエル・カントの超越論的主観性も知らない。戦後フランスのアンチヒューマニスト(フランス現代思想の立役者たち)が批判したのは、ルネサンスヒューマニズムではまったくなく、あくまで同時代の実存主義的・マルクス主義的・キリスト教的等々のヒューマニズムであっただろう。ブライドッティ自身のがどの系譜に取り組んでいるのか、その個別性を見失っては彼女の批判的ポストヒューマニズムの射程は見定められない。

   *

ブライドッティは、ポストヒューマン的な集団的主体性のいわば究極形を、地球への生成変化として語る。フェリックス・ガタリミシェル・セール、ブリュノ・ラトゥールらの議論を思い出させるが、ブライドッティによれば、環境問題に直面した人間と非人間が危機の共有において集団的主体性を形成する、という分析的ポストヒューマニズムの主張はいまだ受動的にすぎるという。ポストヒューマンという「概念的人物」(ドゥルーズ=ガタリ)によってより積極的に集団的主体性の可能性を開拓することが、彼女の狙いだ。この集団的主体性の基礎は、ゾーエー平等主義という生命一元論に求められている。

   *

普遍的で抽象的な人間性――しかし実は理性をもつ白人男性異性愛者を暗黙のモデルとした人間性――に代えて、何にもとづいて新しい共同性を打ち立て、新しい主体性をつくりだすか。個人的主体から集団的主体への転換については、ブライドッティ以前にすでに中井正一も考察し実験していた。ただ中井からブライドッティへとそのパラダイムは、機械と映画から、クローン羊とオンコマウスへと変わっている。土台も歴史性から身体性へと移っている。とはいえ、機械と歴史は身体と生命に含まれ、また含むものであることを、忘れるべきでない。

ミシェル・セール『人類再生』

ミシェル・セール『人類再生』米山親能訳、法政大学出版局、2006年(原著2001年)

 

セールは人類の文化と認識の発展の起源を、最初期の技術たる動物の家畜化(正確には人間と動物の「相互飼い慣らし」)に見いだす。その要となったのは、分節言語によらない外観の――しばしばきわめて美しい――表出によるコミュニケーションであるという。こうした言葉以前の感性的なやりとりは、現代では無用のものになっているどころか、セール言うところの「出ダーウィニズム」の作用にしたがって、科学技術を通して種々様々なデータへと翻訳されて地球規模の集団組織――「ビオソーム」――の根幹になり、いっそう緊密で重要なものになっている。

   *

セールが自由と多様性の原理とする情報装置は、コンピュータ以前にすでに筆記具であり、さらにはそのモデルになった農耕の風景(pagus)であり、もっと言えばアルゴリズムとしての自然そのものだ。その汎価性がまさに目的なき合目的性であることに注意しよう。

   *

技術は偶然を排除することでものごとを合目的的にするが、筆記具からコンピュータまでの情報の技術は特定の目的なしに合目的性のみを生み出すという。バイオテクノロジーがゲノムという情報のレヴェルにまで達した現在、セールによれば、この目的なき合目的性は生命それ自体、ひいては世界それ自体の特性と化している。この指摘は、新田博衞の示唆によればもともと芸術ではなく自然とりわけ生命のことが念頭にあったカント『判断力批判』の洞察に、たしかに通じるものだろう。だが、カントとセールとのあいだで科学と道徳のありようが変わってしまったがゆえに、美的判断も生の意味も変わらざるをえない。

   *

自然と文化のあいだの移行という文化人類学的な問題について論じながら、セールはそこから第三項として「精神=霊」が生じると示唆する。それは暴力に対する言葉であり、エネルギーに対する情報であり、ハードウェアに対するソフトウェアである。セールが宗教を重視する理由の一端はここにある。とはいえ、この精神的なもの、霊的なものの発生は、時間的順序においてよりあとのものというわけではないはずだ。認識のまえに交換があり、交換のまえに契約があるのだから。

ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』

ミシェル・セール『作家、学者、哲学者は世界を旅する』清水高志訳、水声社、2016年(原著2009年)

 

セールによれば、クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と捉え直したようなトーテミズムは、分類操作の基本原理として、自然科学の起源にある。そればかりか分類は、分類対象のみならず、分類をおこなう学者をも、その分類手法に応じて区別し分類してしまう。トーテミズムとしての科学の社会性がここにある。

   *

フィリップ・デスコラの語るアニミズムはさまざまな身体に共通の魂を見るが、セールによれば、ルネサンスガリレオ・ガリレイが成し遂げたものこそ、そのようなアニミズムの再生だったという。というのもガリレイは、多様でハードな物質世界をコード化し動かしている一つのソフトな数学的法則を見いだしたのだから。世界は数学の言語で書かれているとは、万物を動かす魂の発見の謂いにほかならない。とはいえ、ガリレイにとってその数学はまず幾何学だったのに対して、セールにとってはなによりもアルゴリズムである。

   *

トーテミズムが自然科学の起源にあり、アニミズムが物理学の起源にあるとすれば、アナロジズムは数学の起源だという。数学は次々と等号を打ち立て、同一性の種類の増加とともに進歩してきた。主体と客体は思考のなかでそのように同一化される。考える私は考えるものになる。私とは他者だ。といっても、同一性は多数あるのだから、私は多者でもある。アニミズムは変身にあらわれ、物理学は変形を扱うが、アナロジズムは所有=憑依にあらわれ、数学は思考を世界地図にする。

   *

デスコラにとってはナチュラリズムこそ西洋近代の基礎であり、批判すべきと言わずとも相対化すべき当のものだが、セールによれば近代科学はナチュラリズムにもとづいてなどいない。自然と文化との分割は存在せず、ただ権力と一体化した近代の教育制度における「人文科学」がそう語ったにすぎないという。そうして文化を自然に統合するセールの議論は、「大きな物語」のアルゴリズムに基礎をもつ一つの「ビッグ・ヒストリー」という印象を与える。ロジェ・カイヨワにも似るところがあるが、とはいえその基礎は法則というよりも物語のかたちをしている。

   *

知が普遍性に到達するのは、セールにしたがうなら、イデオロギーの不在でも、多種多様な見方でもなく、ある知が別の多くの知と付着成長のように絡まり合っていくそのつながりだ。デスコラは四つの存在論を分類するだけだが、セールはそれを次々につなげ、循環させて、アルゴリズム的な普遍性を示す。

ポール・ヴァレリー『ドガ ダンス デッサン』

ポール・ヴァレリードガ ダンス デッサン』清水徹訳、筑摩書房、2006年(原著1938年)

 

ヴァレリーが歴史や伝記に向ける疑義は、本を読みながらの落描きのごとき気まぐれで途切れ途切れの文体によっても体現されているだろう。偶然とそれへの応答を直線的に羅列するだけの歴史や伝記の言説に対して、「知性の喜劇」「精神の喜劇」を描写する断章は、布置と配列においてかえって必然的な本質を剔抉する。歩行に対する舞踊と言うべきか。マルセル・シュオッブでは歴史の一般性が批判されて個別性が目指されていたが、ヴァレリーでは歴史の偶然性が批判されて必然性が目指される。それはロベルト・ロンギも語るような布置だ。装飾、アラベスクとも言えるか。

   *

ヴァレリーにとって「装飾」の概念は生涯にわたって重要な位置を占める。アラベスクが空間的に展開する延長の装飾だとすれば、ダンスは時間的に展開する持続の装飾だ。いずれも実用的なものではないがゆえに、目的も終わりもなく、無限に続く。芸術を語る言説が、航海術や狩猟術の言説のような明晰さをもたず、かくも曖昧なのも、芸術の作品もろとも装飾になってしまうからか。装飾としての批評、それは本を読みながらの落描きの鏡像か。

   *

ドガの絵画の床や岩を語りながら、ヴァレリーは壁の染みを見るよう勧めたレオナルド・ダ・ヴィンチの教えを思い起こす。ヴァレリーによれば、アンフォルムなフォルムの描写は、定型表現に頼れないがゆえに、画家にその知性を行使させる。たしかにこれは、画家の才能が混沌において新しい着想に目覚めるとしたレオナルドを引き継ぐものだ。しかしレオナルドがただ着想を語ったのに対して、ヴァレリーは素描と観察を問題にする。レオナルドは着想において神になり、ヴァレリーは観察において知性になる。

ジャック・ランシエール『解放された観客』

ジャック・ランシエール『解放された観客』梶田裕訳、法政大学出版局、2013年(原著2008年)

 

ランシエールは、人間の多面性、現実の多層性をつねに注視している。それゆえに、あらゆる二項対立をその可能性の条件に遡って問い直し、対立が反転したり移動したりするさまを浮かび上がらせるだろう。そうして固有性というものをつねに翻訳・変換関係へと解消していく。これはランシエールの述べるフィクションの作業そのものだ。芸術作品を論じるランシエールの論述それ自体が、芸術のフィクションの作業をなぞる。この再帰性ランシエールの言う知性の平等ゆえのものだろうか。

   *

翻訳としての哲学というランシエールの発想は、感性的なものの布置の組み換えによる理解の営為としてのフィクションという議論に結びついているとともに、構造主義的な変換操作を思わせもする。ブレヒトアルトーの演劇が観客のパラドクスにおいて対になり、19世紀の一労働者の余暇がプラトンの国家論の反転になり、プラトンの演劇・舞踊論がギー・ドゥボールのスペクタクル論の原型になる。

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』

ジャック・ランシエール『感性的なもののパルタージュ』梶田裕訳、法政大学出版局、2009年(原著2000年)

 

歴史の終焉論から芸術の終焉論へと、思想の力をめぐる論争の場所が移動していくのにあわせて、ランシエールの研究領域も労働・歴史・文学・芸術へと拡張してきた。この書物の出版から20年になる現在では、真理の終焉論が花盛りか。この移動はむしろ近代というものの閉域を示しているのかもしれない。ランシエールが、倫理的体制・表象的体制・美学的体制の区別によって示そうとしているのも、論争の場所がどこに移動しようとも同じことの繰り返しになるという概念の閉域かもしれない。そしてそのこと自体が政治的なのだ、と。

   *

人間がアリストテレスの言うように政治的動物であるのは、なによりも言葉をもっているからだが、ランシエールはそれをフィクションの能力と捉えて、人間を文学的動物としても語る。フィクションは虚偽ではない。芸術が虚構で政治が現実だという話ではない。フィクションとは現実を構成している記号とイメージの再配置であり、見えるものと言えることとのある特定の関係をつくりだすものであって、その意味で知識も政治も芸術もすべてフィクションをつくりだす。フィクションはまた、ランシエールによれば、与えられた運命から逸れて逃れるためのものでもある。

フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』

フランソワ・ヌーデルマン『ピアノを弾く哲学者』橘明美訳、太田出版、2014年(原著2008年)

 

ジャン=ポール・サルトルフリードリヒ・ニーチェロラン・バルトがどのようにピアノを弾いていたのかをあとづけながら、ヌーデルマンはその非言語的で身体的な活動が言語にもとづく思索活動や社会的・政治的行為と取り結んだ関係を浮かび上がらせる。ピアノを弾く時間は同時代の動向から離れるものであり、けれどもまた歴史と地理の広がりのなかに自己を位置づけるものでもある。音楽の嗜好は非言語的な系譜学でさえあるかもしれない。ニーチェにとって、音楽の〈ドイツ的/イタリア的〉〈ロマン主義的/古典主義的〉は哲学的系譜でもあり、さらには治癒的効果をもたらすものですらあった。

   *

夢見ることと音楽を演奏することの近しさは、これらが他の現実ないし活動に対して距離を生むものであることもさることながら、思いがけない変形・移動・置換をもたらすものであることに存しているか。サルトルにとってピアノの演奏が有したアナクロニズム、パロディ、レジスタンスは、ここに由来するものか。音楽が系譜学たりうるのだとしても、それは非言語的であるがゆえにいともたやすく変形し、だが身体的であるがゆえにかくも意志に左右されない。構造主義パラダイムが音楽であるのは、この操作性のためか。

平倉圭『かたちは思考する』

平倉圭『かたちは思考する』、東京大学出版会、2019年

 

形象の思考と力とが、形象を布置において理解することで、統合される。布置(dispotision)は構成(composition)に比して分散的であり、巻込の作用によって力を揮い、思考を広げる。ホワイトヘッドからアンディ・クラーク、またミシェル・セールからブリュノ・ラトゥールまで、物質的布置がそのまま思考でありうることは、つとに提起されてきたが、その思考は本書『かたちは思考する』でかくもはっきりと力に結び合わされる。プラクシスとしてのイメージ、アクティオーとしてのイメージの理論化の最新形と言うべきか。

   *

類似による認識の結節点を、アガンベンは「しるし」と名指したが、本書『かたちは思考する』では韻、うなり、叫び、グルーヴというように、イメージとしてよりも音響的に把握している。イメージではなくリズム、像ではなく韻をパラダイムにしたとき、類似はその連鎖する時間的展開において成立する。思考が、内的には抱握の連鎖による記号過程であり、外的には行為体と環境のギャップの調整作業であるのなら、類似がそのように連鎖するものであることは重要であるにちがいない。レヴィ=ストロースの示す構造も、変換が音楽のごとく連鎖するがゆえにそれ自体で思考であるのだから。

   *

前著『ゴダール的方法』に取り憑いていた類似の不安は、本書『かたちは思考する』で押韻の不安へと深まる。アスペクトはそれ自体で伝達も保存もされえないがゆえに、類似や押韻には即物的な根拠がなく、ただはてしない付帯状況があるばかりだ。ダミッシュの引くポントルモの言葉が示唆するのも、まさしく絵画とぼろきれとがそうしたアスペクトの差でしかないこと、芸術のすべてがそのあるかなきかの差にしか存していないことだ。だが押韻の不安は、本書所収の新しい論考ほど弱まり、代わって環境との協調、付帯状況の巻込が強まっているように思う。これらは反比例の関係にあるのか。

   *

作品に近づき、遠ざかり、また左右や上下から覗き込むというように、作品の記述にそれを見る身体動作の記述が加わっている。これは、見ることもまた一つの制作行為であること、少なくとも制作の布置を解く行為であることから来ているか。そして文章と図表はその行為の指示書となる。パノフスキーが、美術史は芸術作品の再創造を可能にするような再構成的な言語によってしか書かれえない、と指摘したことを思い出す。だがさらに、もしスミッソンの示唆するごとく、移動こそがスケールの変換とスピードの切替によって文を、図を、生み出すのなら、書くことも見ることも等しく舞踊のごとき運動であるだろう。

   *

形象の思考を理解することがその制作をなぞることなのだとすれば、それが文章と図表への翻訳であるとはいえ、しかしまた身振りをなぞる舞踊、ダンス、という様相を呈する。本書『かたちは思考する』を読む経験が強く身体に訴えかけるのもそのためか。舞踊ということではさらに、無知の技法について語ったアガンベンの示唆も思い出される。舞踊とは知と無知の優美な調和でありうるのか。

 

 

平倉圭『ゴダール的方法』

平倉圭ゴダール的方法』、インスクリプト、2010年

 

すでにある思想を表明したのではなく、映像と音声そのものによって思考しているゴダールの映画を把握するには、作品自体から分析方法を引き出さねばならない。ゴダールの編集操作の手つきが分析方法として作品に再帰的に適用される。これはマランやダミッシュの理論的対象へのアプローチに近しく思える。しかし、観者には身体的な認知限界があるために、この再帰的適用は差異を孕み、ベイトソンの言うごとくモアレ状に第三のパターンを示し、このモアレが認識を導くという。理論=観想(teoria)ならぬ「失認的非理論」(a-theoria)による認識だ。その限界はおそらく身体のみならず、装置、媒体、制度、歴史にも関わるにちがいない。

   *

ゴダールの映画がしばしば観客が映画を見ることのアレゴリーになるのだとすれば、ゴダールの編集操作の根幹たる「類似」が、映画内の映像で完結することなく、観者の想像力も、またその身体さえも、巻き込むからだろう。アビ・ヴァールブルクの情念定型のごとく、光と音を受苦する身体がそれを与える映像と音声に似たものになる。そうしてゴダールは過去を「復活」させる。だが類似は可逆的であり、復活と死はかぎりなく識別不能になる。もし外在的な言語によって類似自体を消去するのでなければ、死と復活の境界は、受苦する目撃者=観客の身体が生きていることにしか求めえない。しかしその身体とはいかなるものか。ここに失認的非理論の場があるだろう。