The Passing

岡本源太(美学)。書物を通過する軌跡。http://passing.nobody.jp/

プレヴォー

  • Bertrand Prévost, « Pouvoir ou efficacité symbolique des image » (2003)
  • Id., « Figure, figura, figurabilité » (à paraître)
  • Id., « Transporter-transformer » (à paraître)
  • Id., « Inverser-traverser » (à paraître)

ベルトラン・プレヴォーは、いよいよ「ジョルジュ・ディディ=ユベルマン以後」に打って出ようとしているのか、このところ精力的に研究を広げてきているよう。プレヴォーの出発点自体は、アビ・ヴァールブルクの衣鉢を継ぐかのごときイタリア・ルネサンス美術における身振りの問題だったものの(以前聴講した講義もその内容だった)、そこからネイティヴ・アメリカンの羽根飾りという、まさにイメージ「人類学」の研究にも手を広げたかと思えば、アドルフ・ポルトマンとレイモン・リュイエを軸にした「動物の美学」の問題にまで取り組んでいる。
レヴォーの理論的な立場を把握しようとすると、まずはこのあたりの論文ということになるのだろうけれど、なによりもジル・ドゥルーズへのはっきりとした依拠が特徴であるように見える。レオン・バッティスタ・アルベルティからクレメント・グリーンバーグにいたるまでの「面」の美学(「外延」の美学)に対して「強度(内包)」の美学を掘り起こそうというわけだが、ちょうどディディ=ユベルマンが「徴候」と「弁証法的イメージ」をキーワード(呪文)にしていたように、プレヴォーは「特異性」と「強度」を呪文にしていると言えるだろうか。
とはいえ、この特異性と強度への着眼は、デイヴィッド・フリードバーグ『イメージの力』への書評(2003年)で鋭く批判したイメージ人類学の素朴な心理主義的前提に対する、プレヴォー自身の回答でもあるように思う。この書評の段階ではまだ現象学と人類学のいっそうの取り込みに期待をかけるという、ディディ=ユベルマンやハンス・ベルティングらとさほど変わらない見解だったが、しかし早くも「機能主義」的な視点(イメージの機能や効力を問う研究姿勢)の限界を見定めていたことに注意したい。「パフォーマティヴ」のレヴェルからこぼれおちるものこそ、「強度」であり、「特異性」であり、もっと言えば「美学」ということになる。

ファルギエール

  • Particia Falguières, "The theatrum mundi in the Sixteenth century" (2005)

パトリシア・ファルギエールはルネサンス哲学と現代美術の二つを軸に据えた研究をしているので、個人的になんとなく親近感を覚えるが(時間割の都合で授業を取れなかったのがいまでも悔やまれる)、このインタビューでは、ルネサンスにおける「世界劇場〔theatrum mundi〕」の比喩を、プラトン『法律』にさかのぼる系譜ではなく、むしろ意外にも当時のアリストテレス主義との関連から、「機械の劇場」「トポスの論理と技術」として明快に解説している。
それによると、永遠不変の天上界と生成変化する月下界とを峻別するアリストテレス主義的な世界観を背景に、不可知だが表象可能な天上界に対して、可知的だが表象できない月下界をそれでも把握する普遍的道具として、ルネサンス的な「トポス」の技術が生み出されたという。いわばある種の分類のテクニックだが、中世のとは異なって、分類法(容れ物)と分類される事象(中味)とが無関係(そうでないと普遍的な応用性をもてない)なのが、特異な点であるとのこと。とすれば、一見すると網羅的で百科全書主義的たらんとしているかのようなルネサンスの分類法や論理学や記憶術……は、実は、全世界を包括的にあらわした表象ではないことになる(たとえイメージに満ちあふれていたとしても)。そうではなく、どんな偶然的なものでも秩序づけて構成しうるという意味で「普遍的」な、一つの道具にすぎない(別の仕方をとれば別の秩序へと構成しうるのであって、唯一絶対の完全な表象をつくりだすわけではない)。
天上界と月下界の区別を破棄するジョルダーノ・ブルーノは、この「道具」を全宇宙に適用してしまったようにも見えてくる。そうであるなら、ガリレイはまさにその反対のことをおこなって、数学という天上界の原理を月下界に適用し、この普遍的道具を解体したようにも思える。

マニグリエ

  • Patrice Maniglier, « Dessine-moi un éléphant ». (2010)

このところエリー・デューリングと並んで、現代思想と現代美術の双方にまたがる考察を精力的に展開しているパトリス・マニグリエ。芸術論『悪魔の遠近法』(2010)と映画論『フーコー、映画に行く』(2011)のあいだに発表されたこの小論を繙いてみると、問題意識もアプローチの仕方もデューリングによく似ている印象。さすが『マトリクス』について共著論文を書き、別々の論文でもしばしばたがいに参照しあっているだけのことはある、と言うべきか。
とはいえ、ある状況のローカルな知覚とグローバルな把握とのつながりを、あらかじめグローバルな構造が与えられていると想定しないで捉えよう、という問題意識には大いに共感できるものの(まさに「世界の複数性」だ)、芸術を「実験」と捉えるアプローチの仕方については、率直に言ってそれほど新しいものと思えなかったりする。否定しようというわけではないが、マニグリエもデューリングも取り上げる作品の傾向がわりとはっきりしているので、知らず知らずのうちに「実験っぽい」作品のみを選んで考察の範囲を狭めてしまう危険性を感じなくもない。そのとき、ローカルとグローバルとの連絡は「反復されるものの核」でもなく「反復されないものの特異性」でもないような同一性の様態にかかっているというその指摘から、さらにどれほど先にまで進んで行けるだろうか。

 哲学者の語彙集成

  • Le vocabulaire des philosophes, I: De l'Antiquité à la Renaissance, Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, II: Philosophie classique et moderne (XVIIe-XVIIIe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, III: Philosophie moderne (XIXe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, IV: Philosophie contemporaine (XXe siècle), Paris, Ellipses, 2002.
  • Le vocabulaire des philosophes, V: Suppléments I, Paris, Ellipses, 2006.

古代から現代までの哲学者の基本語彙を解説した事典五冊(まだ続刊の予定あり)。

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堀池信夫

ロジャー・ベーコンからモーリス・メルロ=ポンティまで、ヨーロッパの哲学者たちによる中国哲学受容を跡づけた労作。一挙に通読するには浩瀚すぎるため、まずはなじみのある16世紀あたりを読み散らかしていると、中国哲学キリスト教と融和しうるものか否かをめぐるイエズス会士たちの逡巡が、古代ギリシア・ローマ哲学がキリスト教と融和しうるか否かをめぐる人文主義者たちの逡巡と同じロジックをなぞっていて、強烈な既視感に襲われる。ルネサンスのヨーロッパにとって古代ギリシア・ローマ哲学は中国哲学と同じほどに異物だったと言うべきか、あるいは中国哲学古代ギリシア・ローマ哲学と同様に咀嚼しうるものだったと言うべきか。

シュミット

「世界劇場」の発想一つ見るだけでも、ルネサンスにおける芸術(虚構)と政治(現実)の関係が一筋縄ではいかないのは当然のこと。カール・シュミットによるシェイクスピアハムレット』論を繙いてみるに、ハムレットとジェイムズ1世、ガートルードとメアリ・スチュアートについて、反歴史主義と歴史主義をともに退けながら、その複雑な関係が剔抉されていて、『陸と海と』と同様に圧巻の一言。脱神話化がこれほど進展したかに見える西洋近代においてなぜハムレットという人物形象が一つの神話たりえたのか、いまなお神話でありつづけているのかという、いわば歴史のアナクロニズムの問いにすら踏み込んでいる。

ガタリ

ひきつづいてガタリの『闘走機械(冬の時代)』と『哲学とは何か』(ドゥルーズと共著)の芸術論を読んでみるに、なによりも感覚を重視するあたりが還元主義的なモダニズム美学を彷彿とさせる一方で、テリトリーとコスモスといった概念で説明されるコンポジションの話は生態学的な発想に親和的だという印象。ふとブリュノ・ラトゥールも、構築主義を批判しつつ、みずからの立場をコンポジションの概念によって説明していたのが思い出される。とはいえ芸術論の系譜を遡るなら、芸術を感情と捉えてそこからネットワーク形成を立ち上げるあたりは、ジョルダーノ・ブルーノ以後の紐帯としての芸術の思想に連ねるべきかもしれない。もっとも、それを支えているのは想像力の論理ではなくて、感覚の論理になっているようだけれど。

ガタリ

ステファヌ・ナドー〔ステファン・ナドー〕らによる精力的な遺稿出版もあって、このところ再考すべき状況が整いつつあるかにみえるフェリックス・ガタリ。その「機械」や「動的編成」といった概念がミシェル・セールの準客体論やブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク論と親和的だという印象はもっていたものの、しだいにエコロジーと美学/芸術への傾斜を強めていったガタリ晩年の書物を繙いてみると、いたるところで「主観化(主体化)〔subjectivation〕」と「実存〔existence〕」を繰り返していて、美学という点も含めて、むしろミシェル・フーコーの晩年を思わせたりもする。フーコーが思想史的な系譜の発掘によって狙っていたものを、現代社会の機構の再編によって補完している、というような。また、セールの場合はネットワークの形成を通した客観(客体)の出現と普遍化のほうに比重が置かれているのに対して、ガタリの場合は同じネットワークの形成を通した主観(主体)の生産と特異化のほうがより前面に出ているように思う(どちらも同じネットワーク形成の表と裏ではあるにしても)。
とはいえ、マニフェスト的な総論テクスト一篇と日本講演のテクスト二篇からなる薄い書物なので、展望はあっても細部はよく見えない。〈精神/社会/自然〉の三対の話もやや唐突な感が拭えず、芸術理論もこれだけではなんとも言えず、やはり同じ晩年の『分裂分析地図作成法』『哲学とは何か』『カオスモーズ』あたりに照らして読む必要がある模様。それでも、ガタリの意外なほどのまっすぐさというか、「アクティヴィスト」ガタリの長年の実践経験に裏打ちされた安定感と真摯さが強く印象に残る。

シャステル、ギンズブルグ

ルネサンスのグロテスク模様の装飾を、ミシェル・ド・モンテーニュが自分の『エセー』に重ね合わせたのは有名な話だけれど、これがルネサンスの自然論・芸術論・想像力論の交点を指し示している興味深い事例だということを、シャステルとギンズブルグを読みなおしてあらためて実感する。フィリップ・モレルはグロテスクの根底にある想像力の在り方をジョルダーノ・ブルーノの想像力論に見いだしたが、自然と人為、現実と空想の境界線を瓦解させるグロテスクの想像力は、はるか遠くまで反響して、アンドレ・ブルトンがジョルダーノ・ブルーノを引き合いに出して語った「わたしたちの想像力と思考が〈自然〉を越えるなどとは考えられない」という言葉にまでつながっているようにも思えてくる。

アラス

  • Daniel Arasse, Léonard de Vinci. Le rythme du monde. (1997)

ダニエル・アラスが「運動」という観点からレオナルド・ダ・ヴィンチを論じたこの書物、レオナルドの受容史にも目配せしているところはアラスならではだけれど、それとともにエミール・バンヴェニストの有名なリズム論をさらっと参照して、運動と形態の両側面をあわせもつものとしての「リズム」に着目している。運動といいリズムといい、西洋思想史のなかで「不動」よりも「運動」が、「存在」よりも「生成」が上位に置かれる(あるいは少なくともその理解が哲学の第一課題と見なされる)ようになった転換点は、やはりルネサンスあたりのように思えてくる。